伽藍の建立
 田澤石内の地に丹治縫殿介(寺院の礎を初めに開いた人を「開基」という、また初代の住職を「開山」という)によって結ばれた庵は、初め一族によって護持され、後に檀家制度の確立と共に檀家によって護持され発展していきました。特に伽藍は順次整備され、江戸時代後期には本堂、庫院(庫裡)、衆寮兼接客間、不動堂、鐘楼堂等が建立されていたことが絵図に記載されています。当時は田澤村、浅川村に渡る50〜60軒の檀家による護持であったと伝えられています。


  火災と移転
 寺院として伽藍の整った長秀院でしたが、弘化2年(1845年)の石内屋敷の大火に罹災し、不動堂を残してほぼ全焼してしまったと伝えられています。古老の方々の口伝によると、「火に包まれた鐘楼から、赤く灼熱した梵鐘がゴロゴロと下の田圃まで転がり落ちた。」と昨日のことのように話されます。
 この大火の後、伽藍再建について協議が重ねられ、「東向いの観音山に伽藍を移す」ことが決定されたと伝えられています。山を切り開き、地ならしをし、用材を切り出し、そして運び出し、檀信徒総出の普請であったと言われます。大火より2年半の嘉永元年(1848年)には本堂本体が完成し、同3年(1850年)には鐘楼が完成し再び梵鐘を収め、同4年(1851年)には本堂格天井ならびに内陣を囲む彫り物の龍や欄間が完成し、落慶法要を修行したと伝えられています。工事期間は罹災から7年に及ぶものでありました。その後明治期に旧庫裡(2代前の庫裡)、経蔵等が建立されました。さらに明治33年(1900年)2度の火災を潜り抜けた不動尊・不動堂も、石内の旧境内地から現境内地へ移転されました。その後、大正7年(1918年)には開山堂兼位牌堂が落慶しました。


  現在の伽藍
 大戦をはさんでの30年間は、全てに「疲弊した時代」でしたので寺院運営にも困難を極めた時代でした。それでも多くの檀信徒の皆様の篤い信仰心の力により戦時中も毎年「大般若祈祷会」は修行されていました。また、昭和47年(1972年)には現境内地に初の墓地(第一霊園)を開設、続いて昭和53年(1978年)には第二霊園(蓬莱霊園)を開設しました。さらに平成4年(1992年)客殿「慈雲閣」を建立して翌同5年(1993年)「長秀院結庵400年記念事業」を円成しました。平成12年(2000年)には庫裡・接客殿を建設し、同14年(2002年)道元禅師750回大遠忌を修行円成いたしました。現在の境内地にはそのような歴史が刻まれています。